2018年5月3日木曜日

足尾銅山写真データベース

先日のブログで触れた、足尾銅山の話題について、このブログをお読みいただいている方々から、問い合わせをいただきました。そのため、私たちの研究グループが作成を進めていた、「足尾銅山写真データベース」のウェブサイトのアドレスをお知らせします(どんな写真が収録されているのだろうか、を知りたいだけであれば、入力箇所にはなにも入れずに「検索」のボタンを押すと、すべての写真が表示されます。もちろん、どなたでも無料でアクセスできます)。

このデータベースを活用してもらうことで、足尾銅山が操業していたころの写真を現在に再びよみがえらせ、『今に生きる私たちは足尾銅山の鉱毒事件を教訓にできているだろうか』と考える機会にもなると考えています。

以下、このデータベースが発表されたときのプレスリリースの一部を転載します。文章の執筆は小出五郎さん(故人)です。

足尾、水俣、フクシマ。有害廃棄物の処理ができないシステムは、人間の健康を損ない生態系を脅かします。足尾銅山の教訓はその原点としていまなお貴重です。足尾銅山・映像データベース研究会(代表者:小出五郎)が4年がかりで作成してきた「足尾銅山写真データベース」を、Web上に正式に公開します。
 栃木県日光市にある足尾銅山は、明治時代の国策「殖産興業、富国強兵」の国策を牽引する象徴的な産業でした。海外の最先端技術を導入、国産化し、優秀な人材を養成、輩出しました。生産した銅は絹製品に次ぐ輸出品で、外貨獲得に寄与しました。見物に来る外国人で横浜に次ぐ賑わいだったといいます。
しかし同時に大量の鉱毒の混じった土砂、廃水が、渡良瀬川を通じておよそ100km下流に至る北関東一帯を汚染することになりました。田中正造を指導者とする反鉱毒運動激化に、社運を賭けて実行された明治30年の鉱毒予防工事も、一定の効果をあげるにとどまりました。
 その一部始終を記録していた写真家がいました。小野崎一徳です。足尾に来た明治16年(1883年)から46年間、昭和6年(1929年)に亡くなるまで銅山と人の営みを白黒の写真に記録しました。
最先端技術を輸入して国産化した削岩機、100馬力の水車4基の水力発電所、銅の純度を飛躍的に挙げた転炉、電気鉄道、ロープウェイの輸送システム・・・。作業員の顔つきや服装、労働の様子。森林が消え荒廃した山肌、鉱毒予防工事命令を受けて建設中の広大な沈殿池、砂防ダム、世界初の排煙脱硫塔・・・。産業遺産、その光と影。小学校、山神祭り、運動会、裁判の様子、芸者たち、迎賓館、町並み・・・。鉱山都市の人の営み。
 実は、一徳の写真は、時代の流れとともに散逸していました。1000枚を越える写真を改めて収集したのは、一徳の孫に当たる小野崎敏氏です。問題は写真に説明がないことでした。そこで足尾銅山・映像データベース研究会は、金属の専門家であり足尾歴史館の中核でもある小野崎敏氏からの聞き取りを行い、文献も参照して1枚ごとに説明を付してきました。
 「足尾銅山写真データベース」は、これまでの成果として足尾銅山の光と影をWebに公開するものです。さらに、「足尾、水俣、福島」の今日性と国際性を考慮して英語版を作成し、世界に発信する計画です。

ぜひ多くの方々にご覧いただき、関心をお寄せいただきたいと思います。

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